荒川の歴史

 私は40年以上、荒川のほとりにすんでいますが、この川が人の手によって 作られたのを知ったのは、数年前です知らない人が、結構いますよ。あなたはご存知でしたか?



この機関車はどこを走っていたか、知っていますか? 土台を高くし、その上に家が建てられています、なぜでしょう(水屋)

 昔の荒川の下流部は現在の隅田川です。その為、大雨時、たびたび大規模な水害が発生し、流域に多大な被害を与えていた様です。又この頃は大雨が降ると、下流部の水幅を狭めて、上流部で洪水を発生させ、東京(江戸)の被害を少なくしていた様です、現在では考えられない事です。

 しかし、それでも上、下流部での大規模な水害が数年おきに発生しました、その為に北区の岩淵から中川の河口に、向け延長22キロ幅500メ−トルの、荒川放水路の大工事が計画されました、明治43年のことです。

 この日本の、近代的土木工事のはしり、とも言える工事は、大正の不況の為工事が伸び伸びとなり、大正13年に通水式にこぎ着けました。この工事にかかった費用は、現在の金額にして2300億円という、大規模な土木工事でした。

 その後、残工事が終了し、全体が完成したのは昭和5年という、20年の歳月をかけた大工事でした。荒川放水路が完成した事により、荒川流域はずっと洪水から守られたという事です。また現在は200年に1度流れる、流量を元に治水が計画されています。

   洪水の惨状(荒川放水路

民家を呑み込む濁水(墨田村) 本所南割下水付近の惨状
西古川町の浸水

   明治の洪水

明治29年  志村付近45戸、岩淵町243戸、王子町231戸、千住136戸、田端120ヘクタ−ルが水に浸かる。
明治35年  赤塚、志村、岩淵、王子、尾久、三河島、南千住、西新井の、7つの町、村が水に浸かり、江北、西新井、花畑、千住町で880戸が水に浸かる。
明治40年  川口で水が屋根まで届き、岩淵から王子までの工場が、水に浸かり休業。志村から岩淵にかけて一面、湖のようになる。被災町、村180あまり、大被害がでる。
明治43年 埼玉県名栗で、総雨量1.216mmを記録、荒川の殆どの堤防に水があふれ、数十ヶ所で破提。利根川、中川、荒川流域の低地はもちろん、東京の下町のほとんどが見渡す限り泥の海になる。死者369人(利根川筋を含む)、流失、全壊家屋1679戸、浸水家屋およそ27万戸の大被害でした。

   工事の歩み

大水害を契機に荒川の改修計画が立てられる。
放水路事業始まる、測量、調査、用地収用に着手。
人、馬を使って高水敷を掘り始める。
浚渫船を使って河口部分より低水路を掘り始める。
岩淵水門起工。
9月30日、高潮で船舶、機械、流失損傷。
新川水門、綾瀬水門起工。
小名木川水門、墨田水門起工。
木下川、中川水門起工、綾瀬川通水。
9月1日、関東大震災、28ヶ所で堤防が崩れたり、裂け目が入る。
岩淵水門竣工、荒川放水路に通水。
荒川放水路工事が完成する。


浅草 オペラ館前 天井裏での生活

明治43年の被災範囲(区県境は現在のもの)
荒川放水路平面改修平面図
(赤線部が荒川放水路予定地)
立ち退きのため、丸太のコロにのせられた家。

 荒川放水路の工事は明治44年に測量が開始され、用地の買収が開始されました。この水路に当たる地域の人々にとっては、住み慣れた土地を手放すという辛い決断を強いられました。買収面積1098町歩、移転戸数1300戸に及びました。この人々の尊い協力により、下流部の住民500万人が、洪水の被害から守られたのです。

   荒川放水路工事風景

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現在の荒川放水路 人、馬の力で川岸の部分を平らにする。
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トロッコで土を運び土手をつくった。 平らになった所に線路を敷いた
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蒸気掘削機で水路を掘り、掘った土はトロッコで運んで、土手をつくった。 浚渫船を使って更に深く、掘っていきます。
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掘った土は、土運船やポンプを使って、沿岸の低地、沼地に運んで、住みやすくするため使われた。 岩淵水門の工事風景。
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岩淵水門での通水式、大正13年10月12日
 
画像は荒川下流工事事務所ホ−ムペ−ジARA 出典  本格的に荒川放水路の歴史を学びたい方は、ARAのホ-ムペ-ジを参考にして下さい、内容の充実した、見事なホ-ムペ-ジです。


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